| 平成17年3月 晴れ 東海道新幹線 三河安城駅前のトヨタレンタカーで、レンタカーを借りる。 車は、2月にマイナーチェンジしたビッツの新車だった。距離は300kmぐらいしか乗っていない。 まずは、松平氏の昔の城・安祥城へ向かう。 ■ 安祥城 〜 徳川家の祖先の城 所在: 安城市安城町赤塚1-2 安城市歴史博物館のすぐ東隣に城跡公園として整備された安祥城跡がある。安祥城は室町時代中期、足利一族の和田親平の築城と推定される。 1471(文明3)年、松平信光が奇策を用いて攻略し、その子親忠に与え、以後長親・信忠・清康の4代五十余年の間、安祥松平氏の居城であった。
その後、織田と今川の攻防が繰り返され、桶狭間の戦い後、1562(永禄5)年に信長と徳川家康との同盟関係が成立すると、安祥城は廃城となった。城跡は南へ張り出す台地にあり、三方は湿地に面した平山城である。 現在の大乗寺(浄土宗)と八幡社の境内が城跡で、北側は県道で破壊されている。 この日は、晴れてはいるが、風が強くて、寒かった。 大乗寺が本丸跡、八幡社が二の丸跡、安城市歴史博物館が本丸跡である。 どう見ても平城で、要害の地ではない。現在は、三方が田圃ですが、昔は湿地帯で要害の地であっただろうか。 安城市から西尾市へ向かう。 ■ 今川氏発祥の地の碑 所在:西尾市今川町 西尾中学校脇 鎌倉時代、承久の乱後、足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。義氏は長男長氏に吉良荘地頭職と吉良西条城(西尾城)を支配させ、自らは次男泰氏とともに下野国足利に帰った。以後、長氏の子孫は吉良氏を称した。吉良家は、二代満氏へと伝えられた。 今川荘は、長氏が少年時代に義氏から装束料として贈られた地で、長氏は次子国氏に伝えた。国氏は荘名の今川を名字とし、今川氏の祖となった。 今川貞世入道了俊の墓(供養塔) 今川貞世は、今川氏の祖国氏の孫にあたる範国の二男で、南北朝時代の人である。遠江国守護職、九州探題をつとめた。九州時代に、懐良親王の南朝王国を崩壊に追いやっている。武将として功のあったほか、冷泉家歌風を伝える歌人として名をなし、また、文人としても知られた。のち入道して了俊、徳翁とも称し九十歳を生きた。 ■ 西尾城 〜 元々は吉良氏の城 所在・西尾市錦城町227 別名、西条城。西尾城は、1221(承久3)年三河守護足利義氏によって築城されたといわれる。義氏は長男長氏に吉良荘地頭職と吉良西条城(西尾城)を、3男義継に吉良東条城を支配させた。 以後、長氏の子孫は吉良氏を称して14代三百余年、西尾城により西尾を支配し、戦国時代を迎えた。 丑寅櫓(再建されたもの) 1561(永禄4)年、徳川方の酒井正親が今川方についた吉良義諦を降し、西条城に入城した。酒井正親は西尾城と改め、その子重忠の時、徳川家康から西尾城の修築を命じられている。![]() 1590(天正18)年、徳川家康の江戸入府とともに、西尾城主酒井重忠も武蔵国川越に転じ、かわって田中吉政が岡崎城と兼領して入城した。田中吉政時代に、ほぼ城郭が完成した。 ■ 実相寺 〜 吉良氏の菩提寺 所在:西尾市上町下屋敷15 実相寺(臨済宗)は、正式には瑞境山実相安国禅寺という。この寺の創建は、1271(文永8)年西条城主吉良満氏が、東福寺の聖一国師を開山に迎えたことに始まる。吉良氏の菩提寺として鎌倉末期には七堂伽藍を完備し、塔頭寺院も四十余を数えるほど繁栄したが、14〜15世紀の南北朝から応仁の乱にかけて吉良氏の内部対立などの抗争があり、一時は衰微した。現在の実相寺は、近世初めに再建されたものである。境内は、本堂・仏殿・鐘楼・庫裏などが建ち並んでいる。 実相寺 仏殿 ![]() 仏殿は一般に釈迦堂(県文化)とよばれ、宝形造・柿葺、3間四方である。1975(昭和50)年の解体修理時に内陣の下端から墨書銘が発見され、遠州雄踏(静岡県雄踏町)の鴨江寺仏殿の移築再建といわれる。仏殿の主尊は釈迦三尊像(県文化)である。 ![]() 実相寺には、立派な松の古木があり、松並木が美しい。 静かで、落ち着いたお寺である。 ![]() ■ 安休寺 一色氏発祥の地 所在:一色町大字一色 安休寺を目指していったが、よく調べていなかったので、なかなか見つからなかった。 ![]() この安休寺の隣に、一色氏発祥之地碑があります。
一色氏の始祖公深は、今から約700年前、弘長3年(1263年)足利一族、足利泰氏の七男として生まれ、長じて、外祖、桜井判官代俊光の所領三河国吉良荘の地頭職を譲られ、一色郷に住し、一色氏を名乗って、始祖となった。 以来、一色氏は、室町幕府の重鎮四職家、侍所、丹後・若狭・三河・伊勢等の守護職として活躍したが、一族は、室町幕府の運命とともに衰退した。 この石碑が場所は、現在保育所か幼稚園のようで、子供たちが遊び回っていた。 ■金蓮寺 幡豆郡吉良町饗庭字七度ヶ入3 ![]() 金蓮寺(曹洞宗)は、饗庭のお不動さんとして幡豆一円の信仰を集めている。 正面に国宝の弥陀堂がある。鎌倉時代に三河七御堂の一つといわれ、1186(文治2)年の建立で、西三河最古の建造物であるという。 国宝 弥陀堂
住宅風の仏堂で3間四方、単層寄棟造・檜皮葺の簡素なものである。堂内には像高80cm、一木造の阿弥陀如来坐像(県文化)が安置されている。小振りな建物だが、800年以上前の木造建築である。国宝の建物なのに、拝観料は無料である。駐車場に車を停めて、門も無く、なにげなく境内に入ると、この国宝の建物がある。これは、すごいことである。 ■ 勝楽寺(曹洞宗) ![]() 勝楽寺(曹洞宗)は、小山田子安地蔵尊として知られている。 寺伝によれば、1339(暦応2)年、足利尊氏の創建になるという。 寺宝には奈良時代の写経本の紙本墨書本事経巻第七(県文化)がある。 黒松(県天然記念物) 〜 足利尊氏誓いの松
門前には樹高30m・目通り5.3mの県内有数の黒松(県天然)がある。地元では「足利尊氏誓いの松」と伝えられている。樹高32m、幹周 6.7mである。枝ぶりもよく非常に大きな松である。 足利尊氏が、寺の創建時に、国家安泰・民福多幸を請願し、自ら植樹したと伝えられている。 実際は、足利尊氏の請願どおりには、室町時代はならなかったようである。 ■ 華蔵寺 〜 吉良上野介の墓もある、吉良氏菩提寺 幡豆郡吉良町岡山字山王山58 ![]() なだらかな丘の麓に吉良家菩提寺の華蔵寺(臨済宗)がある。 本堂の左手に吉良上野介義央の墓所がある。吉良氏は、鎌倉時代から西尾の実相寺を菩提寺としていたが、1600(慶長5)年に吉良義定が先祖追福のために、現在の片岡山華蔵寺を建立し、菩提寺とした。 境内には、義央をはじめ吉良家代々の墓があり、寺宝に義央寄進の梵鐘・筆跡などがある。 ■ 花岳寺(臨済宗) 〜 東条吉良氏の菩提寺 華蔵寺の東隣、歩いて2分の所に花岳寺(臨済宗)がある。 ![]() 花岳寺には、東条吉良氏の菩提寺として、吉良氏先祖の墓をはじめ、吉良氏重臣の墓も多い。 ![]() ■ 黄金堤 〜 吉良上野介義央が領民のために築いた堤
このあたりは江戸時代には、洪水が起こり、水路もそのたびごとにかわるという泥沼地帯だった。そのため、その南に位置する吉良領は、洪水が起こると田畑や家財が流される心配があり、吉良義央のとき、鎧ヶ淵の上流に堤を築いて、流れを西方の矢作古川に合流させるようにした。
この事業は義央が私財を投じて領民の力を結集し、一夜にして築堤されたという。築堤以来、毎年秋には稲穂の波が黄金色にゆらぎ、豊かな実りをもたらしてくれたことから、黄金堤の名が生まれ、義央の徳をたたえ子孫に語り伝えるようになった。考えてみると、吉良上野介は悪い人ではなかったのではないだろうか。昔からテレビドラマで忠臣蔵を見慣れているんで、私も上野介を悪役と思いこんでいるきらいがある。よく、考えてみたら、吉良上野介が、浅野内匠頭に何をしたかは、私はわからない。たぶん、二人の間の考え方の相違・思いこみ・間の悪さ等により、行き違いがあったのではないだろうか。 ■ 東条城跡 〜 東条吉良氏の城 東条城跡は、中世の城として、よく考証されて整備されているようである。安易に、天守閣を建てていないのがいい。 平野に突き出た丘陵の頂上につくられており、四方に見晴らしがいい。 ![]() ![]() 東条城跡は駮馬の山麓が平野に突き出た位置にあり、承久の乱(1221年)後に三河守護となった足利義氏の3男義継以来の東条吉良氏の居城であった。 のちに西条城主吉良義昭が移り住み、永禄年間(1558〜70)に徳川家康のために滅ぼされ廃城となった。現在は古城公園として整備が進み、城跡から見る吉良の町の眺望がすばらしい。 ![]() ![]() ![]() ■ 法蔵寺 〜 新撰組の近藤勇の首塚がある古刹 ![]() 法蔵寺(浄土宗)には、樹齢1200年という「行基お手植えの開山マキ」(下の写真)がある。 この付近は、東国へ街道が抜ける要衝であった。 ![]() 法蔵寺は701(大宝元)年創建という古刹で、その霊験で皇太子が誕生したことから、出生寺と賜号されたという。1385(至徳2)年、名を法蔵寺と改め浄土宗となり、以後三河の三檀林(学問所)として重きをなしてきた。 寺のあった山中郷は足利家の御料所であり、足利6代将軍義教から祈願所とされ、松平氏・今川氏の保護をうけて発展した。 ![]() 境内には珍しい六角堂がある。 六角堂裏の墓所には、松平家菩提所や三方ヶ原の戦い忠死者の墳墓と並んで、幕末に京三条河原でさらし首となった新選組の近藤勇の首塚がある。これは近藤が生前帰依した京都の誓願寺住職が当寺の住職になったため、土方歳三らがひそかに埋めたものという。 ![]() 新選組の近藤勇の首塚 ![]() ■ 滝山寺 〜足利義氏が建立の古刹と東照宮 滝山寺 三門(国重文) ![]() 滝山寺(天台宗)のかなり手前の県道脇に、朱塗りの三門がある。昔は、ここから境内が始まったようである 1267(文永4)年の建築の三門(国重文)で、岡崎市内で最古の建造物である。和様を主体とした中世楼門で、門内には室町期と思われる仁王像がおかれている。屋根のそりがみごとである。 県道を進み、脇道に入って駐車場に車を停め、階段を上ってゆくと、滝山寺の広々とした境内に着く。 本堂(国重文)がある。縁起によれば1222(貞応元)年足利義氏が建立し、1254(建長6)年修復したとある。単層・寄棟造・檜皮葺の建物で、あたたかみを感じさせる。 滝山寺 本堂(国重文) ![]() ![]() 滝山寺は、縁起によれば7世紀後半天武天皇の時代に役の行者によって創建されたと伝える。承久の乱(1221年)以後は・三河守護・額田郡地頭の足利氏から菩提寺に準ずる信仰を集め、数十の坊舎を擁する大寺院として隆盛を誇った。だが14世紀以降になると新興領主層に所領を蚕食され、衰退を余儀なくされた。 江戸時代になると朱印高412石を与えられ、家康によっ諸堂が復興された。3代将軍家光は家康誕生の地に東照宮を建立することを決め、1645(正保2)年滝山寺の一隅に社殿の造営が行われ、新たに200石が宮領として寄進された。 東照宮(国重文) ![]() ![]() 本堂東のやや小高い所にある建物が東照宮で、日光・久能山と並んで日本三東照宮の一つである。本殿、拝殿、幣殿、中門、鳥居、水屋付厨子・石柵・棟札(いずれも国重文)は、創建当時のものである。 ■ 細川城跡 愛知県が建てた石碑はあるが、これが本当に細川氏発祥の地、細川城跡だろうか? 丘陵の下の低地、昔は河原だったようなところにある。不思議である。 ![]() ![]() 確かに、今でも細川の地名は残っている。 ![]() ■ 仁木 細川地区のすぐ、隣には「仁木」の地名も残っている。 ![]() ![]() もう、夕暮れ時になってきたので、三河安城駅に戻ることにする。 レンタカーを返し、三河安城駅から新幹線で帰路につく。 |