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乗用車で,常磐自動車道・首都高速・東名自動車道を経由して,山梨県へ入る。
先月,新車を購入し,ナビゲーションシステムを付けたので,早速遠出したくなり,山梨県へやってきた。


 南部氏居館跡   山梨県南巨摩郡南部町南部
 南部町は,山梨県の南部地方でも,周りは山ばかりである。

 甲斐源氏加賀美遠光の第三子光行は源頼朝に従い、平氏討伐の功によりこの地を領し、南部氏と称した。
 この場所が、南部氏の居館の跡があったところである。古い井戸が残っている。




 光行は、頼朝の奥州藤原氏征伐にも参加して戦功を挙げ、奥州に広大な領地を与えられた。これにより光行は、第三子の実長を波木井に残し、その他の一族を連れて奥州に移住した。

 室町時代・江戸時代,東北地方に南部氏という豪族が蟠踞していたが,元々はこの南部町の地が発祥の地である。


 南部山城跡
 南部町南部の妙浄寺の裏山にある南部山城跡。南部氏の詰めの城である。

妙浄寺より見た、南部の市街地



 波木井南部氏館跡
 波木井実長は,甲斐源氏の一族南部光行の子で,身延の入口波木井に居館を置き,波木井氏と称した。波木井氏居館跡は,現在,日蓮宗の身延山鏡圓坊というお寺である。
 南部氏が奥州に移った後も,波木井氏は甲斐に残り旧領を支配した。しかし,実長の8世の子孫政光は,奥州八戸に移り,八戸南部氏の祖となる。






 山梨県の中心部へ向かって,北上する。

 宝寿院 (真言宗)
 この丘を平塩の丘といい、平安時代天台宗白雲山平塩寺のあった所といわれている。寺坊が100を数えたいわれ、夢窓国師の母も住したと伝えられている。現在の宝珠院はその坊のひとつであったといわれている。
 鎌倉時代の末期(1278年)、夢窓国師一家が伊勢より当地へ移ってきた。国師4歳の時、母を失い、平塩寺で得度を受ける。

 宝寿院の山門を入り坂を登ると、庭園がある。この庭園は夢窓国師の作庭と伝えられる名園である。





 平塩寺跡
 平塩山白雲寺とも呼ばれた平塩寺は、天平7年(735)、僧行基が直辨和尚を開山として、平塩に建立された。東塔院は阿弥陀如来、西塔は、薬師如来を本尊とした法相宗の寺院である。
 延暦年間(782〜802)に天台宗に改宗し、寺勢を大いに広めた。鎌倉幕府と関係の深い逸見法印空阿、名僧夢窓疎石が得度したのもこの寺である。
 天正10年(1582)武田家滅亡の時には、平塩寺はすでに荒廃していた。

 高台にあり,現在神社があるだけである。桜の古木がたくさんあるので,春にはきれいだろう。



 甲斐源氏居館跡
 平塩寺跡の近く。平塩寺跡から見える距離である。
 源義清の居館跡と伝えられている場所である。源義清は,源義光の3男であり,初め常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)を領していたが,1130(大治5)年子清光とともに甲斐に流され,市川の荘司として入国した。そして,しだいに勢力をのばし,子孫が甲斐の各地に進出して甲斐源氏の勢力の基盤を築いた。




 夢窓国師母の墓
 ここも平塩寺跡から近い。
 南北朝時代,「七朝の国師」と尊ばれた夢窓疎石は,1275(建治元)年伊勢国で生まれ,1278(弘安元)年,夢窓疎石が4歳の時,一家をあげて甲斐国平塩に移り住んだが,この年の8月に母を失った。
 母堂の墓所は,梅と桜で覆われ,中央に大正13年12月1日,甲府裁判所検事正島倉竜治主唱により,東郷平八郎元帥額字の「夢窓国師母堂碑」が建立された。
 また,文久年間(1861〜1863)里人鈴木徳右衛門が供養のため建てた野面石の石塔がある。





 安国寺
 暦応元年(1338)足利尊氏は夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔を建立した。この寺が,甲斐国の安国寺で,現在,曹洞宗の悟道山 安国寺となっている。






 法善寺   山梨県南アルプス市加賀美
 この寺は、822(光仁13)年創建され、初め寺部にあったが、その後加賀美遠光の館跡の現在地に移った。遠光の孫遠経が中心となり、諸伽藍を建設し、高野山から覚応和尚を招いて中興の開山としたという。武田家累代の祈願時となり、武田信玄の帰依も深かった。




 古長禅寺  南アルプス市鮎沢505  臨済宗
 古長禅寺は、寺号を長禅寺として1316(正和5)年夢窓疎石によって開かれたという。武田信虎・大井夫人・信玄の崇敬が厚かった。長禅寺は1552(天文21)年、信玄によって母大井夫人の死後甲府へ移され、以後ここは古長禅寺と呼ばれた。甲府の長禅寺は、甲府五山の第一にあげられた名刹である。



 境内の庭園(県史跡)は、夢想国師の築庭といわれている。






 新府城跡
 韮崎市中田町中条上野城山4787ほか

 新府城跡は,国史跡である。台地上の小山を城郭としたもので,西は断崖絶壁であり,天険の地である。
 1575(天正3)年長篠の戦いに敗北後,織田信長・徳川家康らの武田包囲網がしだいにすすみ,1581(天正9)年,武田勝頼は自国内に敵を迎え撃つためのそなえとして,昼夜兼行で工事をすすめ,12月24日入城した。しかし,情勢は急迫,在城わずか六十余日で翌天正10年3月3日みずから城に火を放ち,郡内岩殿城を目指して落ち延び,田野の地で命運がつき滅亡した。

 急な石段を登ってゆく。

 本丸跡

 二の丸跡



 本丸跡

 眼下に釜無川の望む。

 新府城跡は,遠目にはそれほど大きな城とは見えなかった。しかし,城跡に登ってみると広大な城なので,びっくりした。本丸,二の丸が非常に広い。
 これだけの城を防御するには,相応の数の兵が必要である。武田勝頼が,みずから城に火を放ち落ち延びたのは,織田・徳川軍が侵攻して来て,兵が逃げてしまい,城を守れなくなってしまったからだろうか。