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2005年7月27日(水)
坂本竜馬の決断(大政奉還)2

 私の筆では伝えられないので、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」7巻より引用します。


日本を革命の戦火から救うのはその一手しかないのである。
さらには、家康以来の徳川家のその家名を日本の後代に残す手もそれ以外にないし、また土佐の老公山内容堂の板挟みの苦しみを一挙に解決する手も、これしかない。
奇術的な手ではある。
技術として困難ではある。しかし、右の三つの難問を一挙に解決できる手は、これしかないのではないか。

竜馬が土佐屋につくと、すでに菅野覚兵衛ら一同が詰めかけていた。
「うらはな、京へのぼる」
と、竜馬は土佐弁の一人称でいった。
「成功するかどうかはわからぬが、いまのままの情勢を放置しておけば、日本にもフランスの革命戦争か、アメリカの南北戦争のごときものがおこる。惨禍は百姓町人におよび、婦女小児の死体が路に累積することになろう」
竜馬は、自分が打ち出そうとする策をあっさりと打ち明けた。
最年少の中島作太郎がおどろき、
「坂本さん、そりゃ、前説とちがう。以前はなにがなんでも徳川を砲煙のなかで倒す、多少の戦禍はやむをえない、とおっしゃっていたではありませんか」
「思えば、おれも年少客気だったなあ」
竜馬は、あごをなでた。
「ずるい」
「そうそう、ずるい」
「それに、食言漢、変節漢、うすつきのそしりはまぬがれませんぜ」
「まぬがれまい」
竜馬は、くるしそうな顔をした。だからこそ昨夜来、心中の苦渋をなめつづけてきたのだ。
「坂本さん、海援隊はいざ倒幕のときには海軍になって江戸に出航する、とおっしゃっていたのはうそですか」
「慶喜しだいさ。慶喜がおれの意見をきかぬとあれば砲弾を満載して長崎を出航してもらう」
「…………」
みな、沈黙した。
が、若い作太郎はなおむしゃくしゃするらしく、
「戦の一字に訴えずんば回天の偉業は遂げられませんよ。古来、歴史がそれを証拠立てている。坂本さん、あなたはながい貴方の同志だった薩長を裏切るのですか」
痛いところだった。薩長の首脳部は徹頭徹尾、主戦論者だった。洋式兵器の砲弾を徳川政権とその与党大名にあびせかけ、かれらを死体にしてからその上に新政権を樹立しようとしている。
ところが。
竜馬のこの奇策をほどこした場合、薩長は敵をうしない、刃のおろしどころがなく、一個の道化役に化してしまうのである。おそるべき策をいえた。
「薩長は気の毒なことになる。しかしおれはかれら薩長の新政権をつくるために働いてきたわけではない」
「えっ」
「日本人のためさ」
と、竜馬はひくい声でいった。そこに革命正義の基点をおくというこの男の独特の思考法は、すでに勝海舟の薫化をうけたころから数年、巨樹のように胸中で育っている。
「坂本さん、あなたは孤児になる」
「覚悟の前さ」

竜馬は、土佐屋の裏から短艇に乗った。隊士六人が、オールをとった。
そこへ中島作太郎が駈けてきて、河岸の石段から短艇に飛び乗り、
「おれにも漕がせてくれ」
と、一本のオールをとった。
竜馬は、艇尾で舵をにぎっている。
「出よう」
というと、六本のオールが、いっせいに中島川の水をしぶかせた。
まだ陽は昇らない。
川口御番所の灯が、わずかに闇の中にうかんでいるだけである。
「坂本さん、先刻はすまんかったです」
中島作太郎が、オールをたわませてのけぞったままの姿勢でいった。
「なにがだ」
「坂本さんが、時勢の孤児になる、と申したこと。孤児はいいすぎだった」
「言いすぎどころか」
竜馬は、夜風の中でいった。
「男子の本懐だろう」
時流の孤児になることは、である。時流はいま、薩長の側に奔りはじめている。それに乗って大事を成すのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る。

2005年7月17日(日)
坂本龍馬の決断(大政奉還)1

 時は、江戸時代末期、京の都では、時勢が煮えたぎっていた。
 開国・鎖国、佐幕・尊皇攘夷の対立が最終局面に達し、陰謀・テロから、今後の政治体制を戦争によって、まさに決する段階となっていた。
 坂本龍馬は、武力倒幕派の巨魁だった。薩長同盟は、坂本龍馬と中岡慎太郎のコーディネートによるものである。坂本龍馬がいなければ、同盟はでならなかったと思う。西郷隆盛・木戸孝允は、盟友だった。
 ところが、幕末ぎりぎりの段階で、坂本龍馬は、「大政奉還」を策として打ち出す。
 大政奉還は、徳川幕府が250年以上保持してきた政権を、朝廷に返すというものである。徳川氏は、政権を手放すことにより、身軽になり、責任も軽くなり、600〜800万石という領土を温存できる。大政奉還というのは、一種の平和革命方式である。
 薩摩・長州にとっては、せっかく武力倒幕をするつもりだったのに、振り上げた刀のほこさきがなくなってしまう。
 なぜ、坂本龍馬は、今まで苦労していた盟友達を裏切るような策を打ち出したのか。

2005年6月29日(水)
歴史とは

ちょっと、漫画を読んで感動しのたので。
ビックコミックオリジナル2005.6.20の中の「イリヤッド」という漫画からの引用です。

私は歴史を教える教師だが、人からよく聞かれます。
歴史が何の役に立つのかって。
歴史こそ、人生の虎の巻だ。

たぶん、百年後は、僕はもちろん、キミ達も、あの空になっていると思う。
そんな限られた時間の中で、ほんの一握りの人間だけが歴史を作っていく。 ‥‥そう、みんなは思っているだろう?

そうでないことを学ぶのが歴史だ。
学べばキミらもわかる。
自分の人生に決断を下した者が、人類史上どれだけ少ないことか!
いい換えれば、なりたいものになろうと決断すれば、キミらも歴史の一部になれるんだ。
歴史とはイコール決断の積み重ねだ。
そして決断すること自体が偉大なのだ!

2005年6月20日(月)
丹波の神秘の寺・達身寺

 ゴールデンウィークに,兵庫県を廻り,丹波市にある達身寺に行きました。達身寺は,八世紀の建立の丹波で最も古い寺で,丹波の正倉院と言われています。
 拝観料は300円です。このお寺の仏像を拝観して,びっくりしました。重要文化財の仏像12体もあるのです。国宝はありませんが,重要文化財の仏像がこんなにある寺というのは珍しいです。それも,丹波の山国で。達身寺は,謎のお寺で,寺に関する昔の古文書が全く残っていません。
 仏像群の特徴として,北方を守る神様である兜跋毘沙門天が十六体もあること。通常こんなに一つのお寺に無いそうです。本尊仏になる仏像が多いこと。未完成の仏像があること。仏像のお腹がふくらんでいること。これは達身寺様式と呼ばれているそうです。一説には,当時奈良や京都で腕をふるった仏師達の養成所ではなかったかと考えられているそうです。話は違いますが,このホームページを開設してから,今日がちょうどまる1年でした。

2005年5月23日(月)
最近の私

 4月に異動があり、仕事の内容が変わりまして、新しい仕事に慣れないは、忙しいはで、最近あまりWebを更新していません。やっと、5月になって、3月に愛知県に行った時の歴旅をアップしたところです。
 5月のゴールデンウィークに1日休暇を取って6連休にして、5泊6日で、岡山県・兵庫県に行って来ました。それもあっという間に終わってしまいました。仕事が忙しいのですが、また歴旅に行って、ストレス解消をしたいと思っている今日この頃です。

2005年5月11日(水)
信長の宗教改革2

 現在、世界を見ると、中近東では、宗教に根差した対立が続いています。アラブとイスラエルの間では紛争が絶えません。イスラエルの首都・エルサレムが、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地ということもあります。
 現代の日本を見ると、宗教的な対立は皆無と言えます。しかし、中世までの日本には宗教的な対立はあったのです。浄土真宗(一向宗)、比叡山延暦寺、日蓮宗(法華宗)の間では、室町時代に戦争のような戦いをしています。
 日本において、宗教的対立が無くなり、政教分離が成ったのは、信長の時代からです。信長以後、日本の歴史から、宗教的対立は無くなります。なぜかというと、織田家と石山本願寺(浄土真宗・一向宗)との戦い、比叡山焼き討ち等のように、政治勢力と宗教勢力との間で激烈な抗争があり、政教分離がなされたからです。

2005年4月28日(木)
信長の宗教改革1

 信長は、兵農分離による兵制改革だけではなく、宗教改革も行いました。それは、政治と宗教の分離です。我々現代人から見れば、当たり前のことですが、日本だけはなく、世界中で、宗教勢力というのは、権力と富を持ち、それにより政治に介入していました。
 富と持つということは、中世日本は治安を国家が維持できていなかったので、自分で富を守るしかありませんでした。お寺なら僧兵、神社なら神人を養い、武力を保持していました。人が多く集まれば、それを維持するために、また一層富が必要となりました。室町時代は、武士が神社仏閣の荘園を横領するので、その分を穴埋めするために、各地に関所を設け、通行人に関銭をとるようになります。関銭は、公共的に使うわけではなく、自分たちのためにだけ使うのです。これにより、物価が高くなります。また、神社仏閣は、楽市楽座の「座」の大本締めであり、座に関係する物品の生産・販売の許認可権を持っていました。神社仏閣に富が集まる構造になっていました。比叡山や興福寺になると、もう大名のような富を持っていました。それに武力も持ってました。

2005年4月22日(金)
信長、兵農分離を推進する。

 織田信長は、居城を、清洲・小牧山・岐阜・安土と移す過程で、家臣の兵農分離を推進してゆきました。それまでは、家臣は自分の領地に住んでおり、戦いがある時・用事がある時に、信長の本城へ行くという形態をとっていました。信長が、居城を移す過程で、家臣達は、自分の領地から離れ、城の城下に、生活の本拠を移すようになりました。また、お金で雇った傭兵もいました。これにより、信長は、いつの時期でも兵を動かせるようになりました。
 兵農分離をしていない戦国大名は、兵を動かせるのは、時期がある程度限られてきます。兵というのは、9割以上が農民兵なので、田植えと稲刈りの時期には、兵を帰さざるを得なかったのです。それでは、戦争を遂行できる時期が限定されます。それなのに、信長は、積雪でもない限り、いつでも兵を動かせます。これは信長が絶対的に有利な点です。

2005年4月18日(月)
信長、居城を移す

信長は尾張を統一する頃までは、清洲城を居城としていました。
尾張統一を完成し、美濃を目指すようになると、居城を美濃に近い、小牧山城に移ります。

そして、美濃を手に入れると、金華山の稲葉山城に移り、岐阜と改め岐阜城を居城とします。

信長は上洛を果たし、畿内を勢力圏にすると、琵琶湖の湖畔・安土に安土城を築き、最後の居城としました。

信長は、本能寺の変で死ななければ、次の城は、大阪に移っていたのではないかと言われています。その後、豊臣秀吉が天下を受け継ぎ、大阪に大阪城を築きました。

2005年4月14日(木)
斎藤道三の国盗り

  斉藤道三は(もちろん若い頃に)、美濃国に下り、京都・妙覚寺で修行していた頃のつてを頼りにして、美濃国国主の弟の家臣となりました。道三は、弟を助け、兄の国主を追放、美濃国守護代斎藤氏の家を継ぎました。最後には、弟まで美濃国から追放し、美濃国を我が物としました。下克上を地でゆく人で、一代で一つの国を盗んでしまいました。まるで小説ような話です。
 最近の研究では、これまでの斎藤道三の事跡は、道三一代ではなく、親子二代による働きであったことがわかってきました。道三の父・長井新左衛門尉という人と道三により、二代で美濃国盗を完成させたようです。

2005年4月11日(月)
信長、美濃国を目指す。

 桶狭間の戦い後、松平家康と織田信長は、1562年(永禄5年)清洲同盟(織徳同盟)を結びます。これにより、東の守りが必要なくなり、一路上洛を目指し、信長は美濃国攻略に邁進します。
 美濃国の大名は、斎藤氏です。斎藤といえば、マムシと恐れられた斎藤道三がいます。司馬遼太郎氏の「国盗物語」で有名です。この本は、私が初めて読んだ文庫本です。中学2年生のころだったと思います。大河ドラマの「国盗物語」を見終わってから、小説を読んだのではないかと思います。

2005年4月9日(土)
信長の尾張統一

 信長が家督を継いでから、獅子奮迅の活躍が始まります。活躍というより苦闘です。尾張統一には、兄・弟・叔父、あるいは織田一族との血を血で洗う戦いが繰り返されました。本当に人を信じられない、騙された方が悪いような世の中です。戦国時代を地でゆく、弱肉強食の世界です。譜代の家臣に背かれながらも、信長はなんとか勝ち残り、父が死んでから8年後、1559年尾張を統一します。その翌年、今川義元が尾張に侵入しようとして、桶狭間の戦いが勃発します。

2005年4月4日(月)
織田信長の戦国デビュー

 1551年、父信秀の死により、その後を継いだ時、織田信長は18歳でした。その時点で、信長が受け継いだ勢力は、どれぐらいだったでしょう。信長は、尾張一国の大名ではありませんでした。私は、尾張の半分くらいかなと思っていました。実際は、20万石弱だったそうです。
 尾張の国は、尾張上四郡、尾張下四郡と、それぞれの織田家に分割統治されていました。信長の家は、尾張下四郡の織田家の家老だったのです。信長の戦国大名としてのスタートは、尾張下四郡のうち2郡(尾張の国の約4分の1ぐらい)をやっと押さえていただけでした。それほどの大勢力ではありませんでした。